わりばしさん
毎度 あめちゃんです
村上水軍を大阪湾で打ち破った九鬼水軍の根拠地だった九鬼に向かう。
あの村上水軍(ちなみに私は今治の漁師町育ちで、母親の旧姓は『村上』です
)を打ち破った九鬼水軍。
ほかのヒトよりはいつもいつも気になる場所でした。先日、久々に車で通過しただけですが、対岸の海岸沿いに集落が見え、
「ああ、ここが九鬼の集落かぁ。まさに要塞
」と感慨にふけっていました。別に憎いわけでもなんでもなく、すごいなぁという感じです。ムカシ、神社までは行ったことがあるのですが、その先もいかなければ・・・地図で見て、社叢とかが気になっていました。
最初に行くのは「虎の巻」の綿花堂で、甘さ控えめのあんこをカステラで巻いた和菓子が売っている。九鬼水軍の戦法を記した虎の巻からきている。以前、下山して買いに行ったら売り切れだったので、朝一で買うことにしている。この時は、おまけにカステラの切れ端をもらって得をした。
先日、尾鷲トレイル歩く前に尾鷲の「おとと」で見つけました。はなたれ隊隊長のあきんちょに報告したのですが、ちょうど「マグロのカマ焼き」(ブリの大きさの比にあらず)をやっつけた後
だったのであまり食指は動かなかったみたいです。・・・っていうか、やはり綿花堂で買うからこそ虎の巻の秘伝もわかるというもの。もう少し早く見つけていれば村上水軍ももう少しねばれたかも、です。
旧九鬼中学校の隣のコミュニティセンターに駐車して、地元のおばあさんに教えてもらった階段を上る。石積みの住居跡や畑の跡の続く道をピンクのテープを追いながら上る。しばらくすると急な尾根を上っいる猪垣があらわれた。紀北地区の集落ではよく見かけるが、規模が大きく、少ない食料を守ろうとする先人の思いが伝わってくる。
猪垣はイニシエのヒトの思いがヒシヒシと伝わってきますね
九鬼を舞台に江戸時代の捕鯨をとりまく人間模様を題材にした『まぼろしの巨鯨シマ』には鯨を見張る小屋を山見小屋と書いてある。小屋の場所を主体に考えれば名称に違和感はない。九鬼から林道に続く石畳道は結局尾根を越えて一号魚見小屋まで続いていた。石畳道が頂山には続いていなかった事を考え合わせると、石の道標に書かれていた「やま」は「やまみこや」の事なのだろう。山見小屋の跡地をブリの定置網の監視小屋として転用したのが一号魚見小屋のようだ。『まぼろしの巨鯨シマ』にある北の岬の山見小屋がここだと思われる。東紀州には鯨漁を再現した「ハラソ祭」や「鯨の供養塔」「腹子持鯨菩提之塔」などが残っており捕鯨が江戸時代に盛んに行われていたことがわかる。「鯨一頭あれば、七浦うるおう」と言われるほど貴重な財源だっただけに山見小屋の位置づけも高かったのだろう。
恥ずかしながらこの本は知りませんでした。
捕鯨に関する民俗学は知れば知るほど楽しくなっていきますよね。
先日隣の町、三木浦で捕鯨のことでお話しする機会があったのですが、この湾の奥の砂地海岸の地名は『太地』というそうです、そう、あの「太地」と同じ地名です。ここは湾全体が深くて、かつてはクジラ(イルカ)を追い込んでその最奥の砂地海岸で水揚げしたとのこと。
ここには遠見番所・常燈場・狼煙場が置かれ、江戸初期から幕末にかけて海岸防備と船舶の運航に重要な役割を果たしたと書かれた尾鷲市教育委員会の看板が設置されている。石積みの真ん中に木が生えておりその手前に石段が残っているのが狼煙場だろう。驚いたのは大量の瓦が残っていることだ、これまで熊野灘沿岸の狼煙場はいくつか見たが瓦は見なかった。火除けまじないの三つ巴紋の軒下瓦も残っていた。遠見番所・常燈場に舟見番と常燈場の番人が常駐することも多かったのか瓦ぶきの建物が立っていた。ここからは南の熊野灘の展望がきくので南の岬の山見小屋としても使われたのだろう。
海は人間にいろいろなものを授けてくれるとともに、外から謎の文明がやってくる驚異の存在だったのですね。
それを見張るところがいかに重要だったかということがうかがい知れます。
そして九鬼という場所柄もありますが、その時代その時代でイロイロな役目を担ってきたのでしょうね。
「太地」にも似たようなところが残っています。
猪垣を越えると畑や住居跡の石垣が続くが今は植林地になっている。猪垣から民家までそこそこあったので、九鬼の町が昔と比べどれだけ小規模なものになったのかを感じずにはいられなかった。
今日はそれを歩いて体感。
隣の三木浦も、今回は歩いてはいないのですが、文明のおかげでドンドン小規模、狭くなっているみたいです。要調査要踏破、です。
そして、九鬼の町にとどまらず、日本がどんどん狭くなっていますよね。
わが青田も。
ちとヤブコギの感想っぽくなくなりましたが、お許しください。
あめちゃん