おはようございます、雨子庵さん。
新資料が見つかったことで、新たな疑問が浮かび青田のオジヤンを訪ねることにした。オジヤンに教えてもらった事と新資料の確認をするために、私にとっては本丸と言える飯高の三重木材乾留会社の探索に出かけた。
オジヤンを改めて紹介するまでもないですが、訪問してくださりありがとうございます。
ましら(猿)のごとく縦横無尽に千秋界隈を歩かれていたお方、
黙って座ればピタリと答える・・・自分が生まれる前のことでも、あたかも眼前で繰り広げられるように
・・・最近、本題に入るまで多少時間はかかりますが・・・
貴重な貴重な生き字引です
雨子庵さんにレスしてもらって良かったです。
私が知らないオジヤン情報が宝箱のように入っています。
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。
私は山を歩くためには、「三工場」「四工場」「五工場」「六工場」という言葉が必要でした。地元の人と、どこに行ったか会話するときの地名だからです。
そのあと、ノブチャンから「飯高郷土誌」もらって、「ふんふん」と読んでました。
なんと貴重な「飯高郷土誌」持ってるんだ。
三重木材乾留会社から千秋社は直接山林を買ったので、そのまま地名として残ったんだ。
どうりで痕跡も少ないのに場所が確定できるはずだ。
戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
よぉく見つけましたね。素晴らしい。
・・・私、教えていただいた検索で未だヒットせず、です
J-STAGEという論文公開サイトで「小林久平 講義」と検索すると出てきます。
工業化学雑誌(大正6年1月号)の「我国に於ける木材乾留炭化装置に就て」という講義文が見れます。
乾留炭化装置の概要です。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
この話も、山の人たちと呑んでる時にフツーに聞いていました
鳥羽水族館の場所に鈴木商店傘下の鳥羽造船所があったので
三重には地の利があったのでしょう。
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣
青田側の二工場は正確には、千秋事務所跡の対岸(木屋谷川左岸)と聞いています。その辺から昔は吊り橋があったそうです
対岸から見る分にはそれらしき場所はわからなかったなあ。
植林のなのかな?
工場は乾留工場と精製工場に分かれる。乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。精製工場では蒸留して濃度を高め、石灰を混ぜて中和して酢酸石灰にして、搬出した。オジヤンによると、青田の場合は一工場が精製工場で昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。製品の酢酸石灰はカマスに入れて大八車で運んだそうだ。重い酢酸石灰の搬出を考えると最も下流部に精製工場を設置する必要性が
あり、蓮の場合も一工場が精製工場と考えていいだろう。
オジヤンによると、石灰の採石場も一工場の近くにあるそうです。
一工場には(どちらも)明らかに木枠を組んだ反応槽(火をたいた跡か)がありますよね。
オジヤンによると、青田一工場跡で、木で作ったフタも見たことがあるそうです
石灰も自前で調達していたのか・・スゴイ。
また採石場の場所を聞いといてくださいな。
オジヤンも飯高町最後の宮本里美町長の実兄だが。
山の神に参加したとき、お会いしましたよね
忘れていましたが、思い出しました。
新型の2窯3火床の岩本式木材乾留炭化装置は山中に5基設置された。岩本式木材乾留炭化装置の特徴は火床の位置と冷却に使う大量の土管にある。オジヤンによると青田の工場跡には大量の土管が放置された所は無く、通常の炭窯式の乾留工場だったようだ。
確かに青田側の土管は破片ばかりでナゾが解けた気が・・・
このあたりの記述は三重大にあった「木材乾留工業」小林久平(昭和5年)に書いてあります。
乾留窯に熱をためるために煙突口をふさいだダンパーの枠があった。窯に熱が十分にたまると熱風口のダンパーを開き熱風が土管に流れ、冷却するのである。
工場跡で金属製品見つけるのはすごいなぁ
ダンパー部分は頑丈にできているようで、大熊乾留工場跡や蓮第4工場にもあります。
家に帰ってから気づいたのだが木酸液を運んでいた真鍮管もあった。
宝物
この時は、「なんや棒か」と思って捨てたんですが
帰って資料を読んでビックリ。
昨日探しにいきましたが、落葉に埋もれ見つかりませんでした。
- 蓮第4工場の飯場
百年の時を経て残っているとは丈夫なもんだ。左岸に飯場跡がありこれまで集めておいたビール瓶や貧乏徳利に茶わんや皿などの生活痕が残っている。ここで初めて見たのはインク瓶だ。このインクでだれに何を伝えようとしたのかと思うと感慨深いものがある
ガラスはいいですよね、腐らないしきれいだし
私も意味不明の形状結構持ってます
真鍮管を探して歩いていたら
蓮第4工場の飯場跡を見つけました。
あまり人は来ていない感じで、カブトビールの完品もありました。
飯場の大きさからして第4工場もそれなりの規模だったようです。
今は土砂に埋もれてその痕跡は少ししか残っていませんが・・
- 蓮第4工場の飯場の生活痕
第1次世界大戦が終わり、アセトンの代用品が出来たことで乾留特需は一気にしぼみ、三重木材乾留会社の山林をオジヤンが勤めていた千秋社に売却したのだった。
千秋社・・・愛読者の方、キッコーマンのことです。
醤油樽を作るために木が必要だったのです
私が、●●工場の言葉を知ったころ、悲しいかなここまで調べることはできませんでした。感服いたします。
青田に暮らしていた人たちのためにも、なんか、なんか、教えてあげたいですね・・・
講義文を読んで思い当たる所があれば
また、教えてください。