【日付】 2019年11月29日(金曜日)
【山域】 比良
【天候】 晴れ
【コース】 鵜川~・566牛山~滝山~嘉嶺ヶ岳~鵜川
ふっと空いた金曜日、ゆっくりと朝ご飯を食べ、洗濯機を回し、洗い終えた服を干していると、きりりと澄んだ空気が頬を撫でた。
見上げた空はどこまでも青く透明で、その向こうから逃げゆく秋と訪れた冬の囁く声が聞こえた。
月曜日に大津に出かけた時の、バイパスから見た晩秋の比良の情景が甦ってきた。
私がまだ見ぬ、出会うであろう輝きが呼びかけてきた。
出かけよう。部屋に戻り荷物をリュックに詰め込み、車に乗り込む。
走り始めてすぐに、山頂付近が白く光る蓬莱山と武奈ヶ岳の姿が目に飛び込む。
思わず武奈ヶ岳の方に向かいそうになるが、私に呼びかけてきた輝きに出会うのだと、ハンドルを握る手に力を入れる。
林道鵜川村井線を少し進んだ路肩に駐車する。ここから牛山、滝山、嘉嶺ヶ岳と彷徨い、下りは高島市と大津市の境の尾根を辿る旅。
その中に私が出会うであろう輝きが息を潜めている。そう予感する。
さぁ始まると、胸を躍らせて堰堤に立つと、見下ろした鵜川の痛々しさに呆然となる。最後に訪れたのは一昨年の初夏。
堰堤の下をくぐり、爽やかな水の心地よさにうっとりとしながらこの川を遡っていったのに。その後の台風の爪痕なのだろうか。
取り付いた尾根も以前より荒れた感じがする。無言になって常緑樹の目立つ尾根を登っていく。
標高500mを過ぎた辺りで、木立ちの向こうにうみへと延びる尾根の形をとらえ、そちらに向かう。
数十メートル下ると大きな岩が現れた。忍び足で岩の上に立ち、ふぅと息を吐きながら首を反らす。
目を見開くと、朝と変わらぬ透き通った青空が広がっていた。
空の向こうでは茶色くなった鈴鹿の山やまが、私が聞いた秋と冬の囁きに耳を澄ませていた。
裾野に目をやると、赤茶けた紅葉の木々が旅立ちを前にまどろんでいた。
平坦地の田んぼは静かに眠りにつき、集落の屋根からは冬支度をするおばあちゃんの笑い声がもれていた。
そして目に映る世界の真ん中にあるうみは、すべての感情を超え、ただただそこに佇んでいた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。ぼおっと突っ立っていた私の中でかたりと何かが音を立てた。
逃げゆく秋の透明なかけらをこころに感じた。
先に進もう。滝山はまだ先だ。
- 牛山の下の岩からの眺め
566mの牛山からは倒木の多い雑然とした二次林のだだっ広い尾根が続く。目を見張るような紅葉は見当たらない。
木々の葉の大半は落ち、
冬の囁きに負けず、今日一日は秋の光を思いきり浴びようと、細い枝にしがみついている葉も、もはや鮮やかさは失われている。
ふと、足元のくすんだシロモジの黄葉に目が吸い寄せられる。
しゃがんで眺めると、一枚の葉には逃げていった秋の一つの真実が映っていた。
690mのこぶを下ると池だ。落ち葉の広場に出る。池はどこにいったのかしら。
ふいに地中に足が引きずり込まれる。あぁやってしまったと思ったら、すねまで潜り止まってくれた。
長靴を履いて来てよかったと、ほっとする。
数メートル先の落ち葉の中から、冬眠の準備中のような、水たまりほどの大きさになってしまった池が覗いていた。
- 適当に登った小さな尾根で出会った岩
今日もここで遊ぼう。この一帯はでこぼこと入り組んだ地形が広がる。
取り立てて美しい景色でもなく、やぶっぽい箇所もあるけれど、地図を眺めていると彷徨いたくなる。
足の向くまま、小さな流れや、やぶっぽい窪地と遊び、目に留まった尾根を登る。頭上に岩が見えた。
そして、岩の近くの一本の木には可愛らしいなめこがついていた。
片手に納まるくらいの数しかなかったけれど、なめことの出会いに恵まれなかった私に、逃げゆく秋が落としていってくれたのかしら。
木立の中にでんと佇む大岩の、何ということもない景色が輝きを見せる。
私だけが出会った、小さな秋の情景にうれしくなる。
歩きやすかった記憶の残る滝山の南東の尾根も、訪れる度に倒木が多くなり、すたすたと進めない。
脇にそれると、落ち葉としシダの中に白い倒木が浮き上がっていた。
「雪!」と心臓が波打ち、頬が熱くなる。目の前の冬にそっと触れる。
指先から飛び込んだ、ぴりっと冷たく熱い冬がこころに突き刺さる。
裸の木々の向こうに見える武奈ヶ岳のてっぺんは昼になってもまだ白い。
きれいだなぁと落ち着いて眺めている私がいる。
小さな小さな冬の衝撃は、雪化粧した山に負けないくらいに大きかったりする。
尾根が落ち着いてきたと思ったら滝山の三角点に着いていた。
陽光が降り注ぐ、葉が落ちきった冬枯れの山頂は、あけっぴろげでからりと明るい。
少し遅めのお昼ご飯をとり、嘉嶺ヶ岳に向かう。
- 市境尾根からの眺め
ここから市境の尾根を下っていく。
目の前のうみに飛び込んでいくような、この爽快な尾根を下る度、うみを感じる暮らしに幸せを覚える。
それにしても、今日はなんて空気が澄んでいるのだろう。
伊吹山が最後の秋を味わうかのように気持ちよさ気に佇んでいる。
そして、午後の温かな陽射しを浴びた柔らかな山肌の上に、私が待ち焦がれる白く冷たく熱い雪面を感じる。
うみの向こうの景色に見とれて歩いていたら、何かが足をつかまえた。
山帰来だった。
艶やかなべっこう飴色の、丸みを帯びたハート形の鏡のような葉には、
私が掬い上げた秋と冬の小さなかけらが煌めいていた。
すうっと音がして、煌めきは透明な風となり、私の中に戻っていった。
- 山帰来(サルトリイバラ)
林道に出ると、山ほどの緑の葉の束を背負ったおばあちゃんが木立の中から現れ、話しかけてきた。
「何を拾ってきたの?」
「透明な秋と熱い冬のかけらを拾いました。」と言いたかったのに、恥ずかしく、山登りに出かけただけ、と答えてしまう。
「そうかぁ。山は楽しいよねぇ。」
「とっても楽しいです。」
「わたしはもう少しうろうろするわ。あっちの方にいいシキミがありそうだ。」
鵜川ファームマートにお野菜などを置いていて、何もない時期は山からシキミやサカキを採ってくるという。
「気いつけて帰りや。」と朗らかに笑いながらおばあちゃんは去って行った。
土と共に生きる女性はたくましい。冬への覚悟と愉しみを、おばあちゃんの後ろ姿は語っていた。
牛山の岩の上で聞いた笑い声はおばあちゃんだったのね、とひとり頷く。
日常から続く小さな山で出会った輝きは私の中で熟成されていく。
秋から冬へ、こころに灯った輝きを、ふと言葉に紡ぎたくなった。
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