山行記録を読み解く。
さて山行記録の内容であるが、現在の蓮ダムの奥にあった蓮集落から千石谷沿いに登行し、桧塚奥峯を回りヌタハラ谷沿いに下降して蓮に帰ったのであった。
添付の「桧塚奥峯概略図」は大雑把で解り難く、当時の印刷技術 (活字と手書きが混在)では正確な位置が解かりづらい。
しかし地図だけ見ると解かりづらいが、文章を読みながら追っていくとある程度解ってくる。
現在の地図を見ながら経路を辿って見た。
- 現在地形図 等高線間隔10m
A.新築を急ぐ蓮の小学校を右に下路を通り
B.左岸のヌタハラ谷を過ぎると
C.更に右岸に奥の平の谷と別れて
D.左岸から水のあるカラ谷の右側を登る。
E.井戸谷を越えると
F.千石平という平がある。
今はあるかどうかわからないが、以前このあたりの千石林道に「火の用心」の横断幕と千石平国有林の看板があった。
そして今でも地図の破線道には道が残っていると思う。
ここまでの位置は間違いないだろう。
G.更にその上稍々狭いピキウス平と云うあり。
-------- 2022/8/7 記入 -----------------
ピキウス平の名称をヒキウス平と訂正します。
ピキウス平は印刷時の誤植のようです。
尚ヒキウス平の位置は、千石谷の近くで以前のピキウス平と同じ所です。
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この「ピキウス平」がネットで云われているヒキウス平なのだろうか?
そして問題は読み方である。ピキウス平かヒキウス平かである。
- 文字拡大
ピキウスの活字をよく見ると「ヒ」ではなく「ピ」のように見える。
私は「ピキウス平」が正しいのではないかと思う。
そして概念図には「ひきす平」とあるが、これは誤植で「ピキウス平」が正しいのではないだろうか?
本文の文章は校正されているはずだし、「懇」の誤植以外は間違いが無いので「ピキウス平」のほうが信頼性は高い。
- 桧塚奥峯概念図部分
概念図の「ひきす平」(文章のピキウス平と同じと思う)の位置は稜線の近くにあるが、これは地図の記入スペースの問題でこの位置に書かれたのではないか?
いずれにしろ稜線より千石谷側(南)であることは間違いない。
私はピキウス平の位置を「G」に推定した。
なぜこのGの位置かと言うと後のH,I の記述があるからである。
後述Hの記述からピキウス平の付近に開墾地があったのである。
そして開墾地は山の上ではなく谷に近いほうと考えたほうがいいのではないか?
つまり千石平があり、次にピキウス平があり、そして開墾地があったのである。
それとIの記述の「熊笹の小径をあえぎ登れば午前十時頃尾根に出る。」とある。
開墾地よりさらに登って尾根に出たのである。
H.神戸鈴木の乾溜工場があつた頃の開墾地
この後の記述に「左に赤ぐら滝が寿々響いてくる。」とある。
私もこの辺りを何度か歩いたことがあるが確かに滝の音が聞こえる。
I.熊笹の小径をあえぎ登れば午前十時頃尾根に出る。
J.更に熊笹の尾根径を西方に赤ぐら山1400米峯の西肩に出づ。
この「赤ぐら山1400米峯」が難解であった。
最初K地点のP1394ではないかと考えた。
なぜなら標高1400mに近い山はこの付近ではここしかなく、ここは赤嵓滝谷の源流にもあたるからである。
しかし、この後の記述に「北に桧塚あたりがよく見え」とくる。
K地点から桧塚(M,N)方面は北ではなく東北東である。
概念図を見ても簡略ながら、赤ぐら山の北に桧塚が書かれている。
概念図と記述はほぼ一致しているのに現実は違っているのだ。
もしかしたら大西さんは現在とは違う別の地図を使っていたのではないかと思い、そこで古い地図に何かのヒントがないかと調べてみた。
これが新資料の明治の地形図である。
- 明治地形図 等高線間隔20m
この地図を見て今までの疑問がすべて解決した。
概念図は明治の地形図を写したと思うぐらいよく似ていて、これを基にして作られたものに違いない。
- 概念図と地形図の類似性
やはり大西さんはこの地図を使っていたのだ。
そして「赤ぐら山1400米峯」は、現在ヒキウス平と呼ばれているJ地点に指定すると、概念図や記述とよく合うのである。
明治の地形図では、この位置は確かに等高線1390m以上あるし、桧塚(M,N)はほぼ北にある。
概念図ではこの南に「嵓」と記入してあり、エアリアマップでは「赤嵓」と書かれているから、このJ地点を赤ぐら山(概念図では赤嵓山)と呼んでもなんら不思議はないのである。
L.判官平を左手にして
M.1440米A峯即ち桧塚奥峯とも云うべき目的の山頂に遂に到達する。
概念図で1440峯となっている地点である。
桧塚奥峯は現在1420mになっているが、何年か前のプレートの標高が1440mになっていた。このあたりに詳しい長い登山経験のある人に聞いても1440mで間違いないと言っていた。
この疑問も明治の地形図を見て解けた。明治の地形図には1440mの等高線があったのだ。
N.桧塚は地図で見ると前述の桧塚奥峯の真東に添う1400米線の出張り位の所である。
P.1402.3米の三角点ある峯は無名にして、千秋社で名付けている「千秋峯」と云うは結構であると思われる。
Q.其後に青田側で千秋峯の東尾根の塊を桧塚と称うのを知つた。
こうして「桧塚奥峯 大西保夫 記」を読んでみると、すべての記述(文章)は正確で完璧なものであることが解った。
その結果ネットでヒキウス平と云われている所は「赤ぐら山(赤嵓山)」であったのだ。
- 千石林道GE
- 桧塚GE
訂正 2019/08/08
桧塚GEの画像で、「桧塚 千秋峯」の桧塚の文字を削除しました。
訂正 2019/08/11
「概念図と地形図の類似性」の画像を追加しました。