【南伊勢】修験の風に乗って鴻坂峠をめざせ 温坊・牛草山・駱駝山

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Re: 【南伊勢】修験の風に乗って鴻坂峠をめざせ 温坊・牛草山・駱駝山

by わりばし » 2026年1月13日(火) 05:16

おはようございます、skywalkeさん。

 南伊勢町伊勢路には中世より獅子舞が受け継がれており、当時は獅子頭を造営し、猪頭仲間と称して堅く党を結んで行事を伝え、南北朝の動乱後には寺社も含んだ惣という自治体組織を組織していた。現在でも旧暦の1月15日頃の夜に獅子舞が奉納される多目的集会所に駐車する。
子供のころ地元の志氐神社で行われる獅子舞を見に行ったことがあるけど子供のことだからさして面白いとも思わなかったけど調べてみたら今も夏祭りに合わせて奉さん会が奉納しているらしい。伝統芸能を守るのも色々大変だろうなと思います。

四日市も空襲から逃れられたあたりは伝統芸能が残ってますね。
伊勢路も南伊勢の中では山手の集落で大津波の影響が少なかったようで、しっかりと残っています。
ただ、高校も無くなり過疎化の波は押し寄せてきてますが。

秋葉山神社
秋葉山神社

少しの耕作地しか確保出来ない場所でも高い石積がどこまでも続いており、植林がなければ天空に突き上げる棚田が見れたことだろう。
効率の悪い棚田はどんどん放棄され比較的大規模な棚田でも放棄地が増えている。後継者がいないのだから仕方ない。米価が多少上がったところで食い止めることは無理だろう。山間地でも機械の入る田は集約してコメつくりを守ってほしいものだ。今の農政は農業を守るというより農協を守って安楽死を願っているようにしか見えませんが。

米はどうなるんでしょうね。
耕作放棄地の植林というのも山間部では珍しくないです。
農業で食べてけない現状では、厳しいなあ。
:cry:

棚田
棚田

 急な上りの先が温坊(473m)で、広々した山頂部に観音堂が昔はあったようだが、今は自然石を固めた台座の上に石柱が残されているだけだった。当時は熊野灘からの日の出が御堂を温かく包み込んでくれたのだろう。温坊を過ぎたあたりから尾根筋を避けたトラバース道になる。前回の萱場と牛草辻をつなぐ道と同じで、高低差を抑えた牛道で、牛草山南尾根も萱場だったようだ。
観音堂も今や石柱が残るのみですか。さみしいですね。
昔は屋根の吹き替えに必要だった萱場も存在意義を失いどこ吹く風ですね。すすき野の銀色の穂が風に揺れる様は癒されて好きですけどね。

如意輪観音様ってどんなだろう?

こんなんです。
片膝を上げ、そこに肘をついているので首のない石像でもわかるでしょ。

如意輪観音
如意輪観音

東峰と西峰の2つの大きな嵓を持つ山容がフタコブラクダにみえたのだろうか。
駱駝山ッて珍しい名前ですね。名前からはシルクロードなどエキゾチックな連想が膨らみます。

古典落語に「らくだ」があるので、江戸時代には庶民にも存在は知られていたんじゃないかなあ。

 茶臼山(393m)より植林に入り、微妙なアップダウンを繰り返し鴻坂峠に着くと、岩に掘られた祠に役行者の石像が待っていてくれた。
今度はちゃんとした史跡が出てきた。むらさんが食いつきそうねネタだ。

役行者好きですからねえ。
いつごろに祀られたのかな?

鴻坂峠は、後醍醐天皇の息子の宗良親王が一時期滞在した一之瀬城と熊野灘沿いの五ヶ所城を結ぶ南朝にとっては重要な意味を持つ峠だ。
近年まで使われたこともあって史跡が残されていたのかな。
ご高説ありがとうございました。

度会町の人にとって天皇の息子が長きにわたり滞在したのは誇りのようです。
一ノ瀬と五ケ所を結ぶ最短ルートです。

Re: 【南伊勢】修験の風に乗って鴻坂峠をめざせ 温坊・牛草山・駱駝山

by skywalk » 2026年1月10日(土) 18:21

わりばしさん、こんばんは。
峠シリーズの探訪ご苦労様です。
 南伊勢町伊勢路には中世より獅子舞が受け継がれており、当時は獅子頭を造営し、猪頭仲間と称して堅く党を結んで行事を伝え、南北朝の動乱後には寺社も含んだ惣という自治体組織を組織していた。現在でも旧暦の1月15日頃の夜に獅子舞が奉納される多目的集会所に駐車する。
子供のころ地元の志氐神社で行われる獅子舞を見に行ったことがあるけど子供のことだからさして面白いとも思わなかったけど調べてみたら今も夏祭りに合わせて奉さん会が奉納しているらしい。伝統芸能を守るのも色々大変だろうなと思います。

少しの耕作地しか確保出来ない場所でも高い石積がどこまでも続いており、植林がなければ天空に突き上げる棚田が見れたことだろう。
効率の悪い棚田はどんどん放棄され比較的大規模な棚田でも放棄地が増えている。後継者がいないのだから仕方ない。米価が多少上がったところで食い止めることは無理だろう。山間地でも機械の入る田は集約してコメつくりを守ってほしいものだ。今の農政は農業を守るというより農協を守って安楽死を願っているようにしか見えませんが。

 急な上りの先が温坊(473m)で、広々した山頂部に観音堂が昔はあったようだが、今は自然石を固めた台座の上に石柱が残されているだけだった。当時は熊野灘からの日の出が御堂を温かく包み込んでくれたのだろう。温坊を過ぎたあたりから尾根筋を避けたトラバース道になる。前回の萱場と牛草辻をつなぐ道と同じで、高低差を抑えた牛道で、牛草山南尾根も萱場だったようだ。
観音堂も今や石柱が残るのみですか。さみしいですね。
昔は屋根の吹き替えに必要だった萱場も存在意義を失いどこ吹く風ですね。すすき野の銀色の穂が風に揺れる様は癒されて好きですけどね。

如意輪観音様ってどんなだろう?

東峰と西峰の2つの大きな嵓を持つ山容がフタコブラクダにみえたのだろうか。
駱駝山ッて珍しい名前ですね。名前からはシルクロードなどエキゾチックな連想が膨らみます。

 茶臼山(393m)より植林に入り、微妙なアップダウンを繰り返し鴻坂峠に着くと、岩に掘られた祠に役行者の石像が待っていてくれた。
今度はちゃんとした史跡が出てきた。むらさんが食いつきそうねネタだ。

鴻坂峠は、後醍醐天皇の息子の宗良親王が一時期滞在した一之瀬城と熊野灘沿いの五ヶ所城を結ぶ南朝にとっては重要な意味を持つ峠だ。
近年まで使われたこともあって史跡が残されていたのかな。
ご高説ありがとうございました。

Re: 【南伊勢】修験の風に乗って鴻坂峠をめざせ 温坊・牛草山・駱駝山

by わりばし » 2026年1月07日(水) 05:09

おはようございます、グーさん。

わりばしさん、こんにちは。そろそろ雪山ですよ。

雪山装備を出さないと・・
季節は過ぎ去っていく
:mrgreen:

【南伊勢】修験の風に乗って鴻坂峠をめざせ 温坊・牛草山・駱駝山

タイトルに躍動感がありますね。
「よっ!!ますます乗ってますねぇ~」と声をかけておきましょう。


豚もおだてりゃ・・という感じで、お願いします。

現在でも旧暦の1月15日頃の夜に獅子舞が奉納される

こうゆう伝承は出来る限り続けてほしいなと思います。

小学校が無くなると、地域の文化は先細りになります。
このあたり高校も消えちゃったし・・
伊勢路まで来ると津波の被害は少なそうな感じでした。


稜線の手前まで石積みは続き、貴重な水のある谷筋を大切に使っていた昔の人の息遣いが聞こえるようだった。

リアス式海岸は平地が少ないから石積み田畑が山の上まで伸びているのですね。
畑に行くまで上り下りが大変だ。昔の人は強い。

今まで見た中で、ここが一番ですね。
南伊勢は豊富に水の流れる谷筋が少ないので貴重だったのでしょう。
牛草山が源流になります。
五ケ所周辺では立派な石積を持つ家が多く
石積の技術を持っていたようです。


棚田
棚田

フタコブラクダにみえたのだろうか。

名付けられたのは何時頃なんだろうか?
こんな地方でフタコブラクダを知っている人がいたんだ。
それが定着したのは他の人も知っていて同意したからですよね。
奈良の正倉院にしか絵はないと思うのだけど・・・・

真意の程はわかりません。
一ノ瀬や五ケ所は、当時は文化の流れ込む場所だったので
駱駝という動物を知っていた可能性はあります。

嵓

役行者の祠と鴻坂峠

鴻坂峠から駐車地までは置き自転車ですか?

そうです。
途中の斉田は映画「きいろいゾウ」のロケ地でした。
松阪市柚原は主人公の家があるだけで、ほとんど南伊勢なんですね。


「きいろいゾウ」ロケ地
「きいろいゾウ」ロケ地

https://www.kankomie.or.jp/special/film ... /kiiro.pdf

Re: 【南伊勢】修験の風に乗って鴻坂峠をめざせ 温坊・牛草山・駱駝山

by グー(伊勢山上住人) » 2026年1月06日(火) 14:26

わりばしさん、こんにちは。そろそろ雪山ですよ。

【南伊勢】修験の風に乗って鴻坂峠をめざせ 温坊・牛草山・駱駝山

タイトルに躍動感がありますね。
「よっ!!ますます乗ってますねぇ~」と声をかけておきましょう。

現在でも旧暦の1月15日頃の夜に獅子舞が奉納される

こうゆう伝承は出来る限り続けてほしいなと思います。

稜線の手前まで石積みは続き、貴重な水のある谷筋を大切に使っていた昔の人の息遣いが聞こえるようだった。

リアス式海岸は平地が少ないから石積み田畑が山の上まで伸びているのですね。
畑に行くまで上り下りが大変だ。昔の人は強い。

温坊(473m) 行場(506m) 奥山(451m)駱駝山(432m)

標高が明記してくれてあるので辿りやすい。

フタコブラクダにみえたのだろうか。

名付けられたのは何時頃なんだろうか?
こんな地方でフタコブラクダを知っている人がいたんだ。
それが定着したのは他の人も知っていて同意したからですよね。
奈良の正倉院にしか絵はないと思うのだけど・・・・

役行者の祠と鴻坂峠

鴻坂峠から駐車地までは置き自転車ですか?


             グー(伊勢山上住人)

【南伊勢】修験の風に乗って鴻坂峠をめざせ 温坊・牛草山・駱駝山

by わりばし » 2026年1月06日(火) 05:22

【日 付】2026年1月4日(日)
【山 域】南伊勢
【コース】8:15伊勢路---10:05温坊---10:55牛草山---12:15駱駝山---13:35鴻坂峠---14:20伊勢路
【メンバー】単独

https://maps.gsi.go.jp/#15/34.370539/13 ... z0r0s0m0f1

 南伊勢町伊勢路には中世より獅子舞が受け継がれており、当時は獅子頭を造営し、猪頭仲間と称して堅く党を結んで行事を伝え、南北朝の動乱後には寺社も含んだ惣という自治体組織を組織していた。現在でも旧暦の1月15日頃の夜に獅子舞が奉納される多目的集会所に駐車する。


伊勢路の獅子頭
伊勢路の獅子頭
 寺前堂に舞台があり歌舞伎や地芝居が戦前まで行われていた、寺前堂より林道を進むと鳥居の奥に秋葉山神社の祠がありミカンと御神酒が進ぜてあった。谷が狭まり山が深くなるのかと思ったが、急に広く開けた棚田跡が出てきた。石積は標高を上げても細かく広がり、植林になっても続いている。少しの耕作地しか確保出来ない場所でも高い石積がどこまでも続いており、植林がなければ天空に突き上げる棚田が見れたことだろう。稜線の手前まで石積みは続き、貴重な水のある谷筋を大切に使っていた昔の人の息遣いが聞こえるようだった。

五ケ所湾
五ケ所湾

 急な上りの先が温坊(473m)で、広々した山頂部に観音堂が昔はあったようだが、今は自然石を固めた台座の上に石柱が残されているだけだった。当時は熊野灘からの日の出が御堂を温かく包み込んでくれたのだろう。温坊を過ぎたあたりから尾根筋を避けたトラバース道になる。前回の萱場と牛草辻をつなぐ道と同じで、高低差を抑えた牛道で、牛草山南尾根も萱場だったようだ。

温坊
温坊

 行場(506m)に上らずにトラバースするあたりに石仏があり、頭は無いが丸い石が代わりに置いてある。片膝を上げ、そこに肘をついている如意輪観音で、温坊の観音堂との関係があるのだろう、行場は修験者の修行の場だけに想像を膨らませてくれる。

如意輪観音
如意輪観音

 牛草山へは牛道のおかげでスムーズに来られたのでいっぷくして、ピストンで鴻坂の分岐に戻る。奥山(451m)を過ぎると獅子ヶ岳の風力発電群が大きく見え、岩場を超えると駱駝山(432m)で雷松跡と書いてある。西峰にも大きな嵓と岩場があり、最後は尾根筋に下りれない嵓を巻くよう越え尾根筋にトラバースしていく。東峰と西峰の2つの大きな嵓を持つ山容がフタコブラクダにみえたのだろうか。岩場は本来は苦労する所だが、テープがていねいにつけられており問題ない、南勢テクテク会の地元だけのことはある。温坊から近く、駱駝山も行場だったようだ。

 茶臼山(393m)より植林に入り、微妙なアップダウンを繰り返し鴻坂峠に着くと、岩に掘られた祠に役行者の石像が待っていてくれた。鴻坂峠は、後醍醐天皇の息子の宗良親王が一時期滞在した一之瀬城と熊野灘沿いの五ヶ所城を結ぶ南朝にとっては重要な意味を持つ峠だ。戦後間もない頃まで一ノ瀬から伊勢路まで潮干狩りに行くのに、伊勢路の子どもたちが一ノ瀬の小学校の運動会に参加するために越えた生活道だった。

 
役行者の祠と鴻坂峠
役行者の祠と鴻坂峠

 鴻坂峠には「弘法の足跡」という言い伝えがあり、弘法大師が諸国回遊の際に身を清め、岩の上に立って、一心に念仏を唱えているうちに、弘法大師の足と、持っていた杖の跡が、くっきりと岩に付いてしまったというものだ。如意輪観音は密教で重要視された仏で、弘法大師空海は真言密教の開祖、役行者は修験道の開祖と修験の風が吹く山域だった。

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