【日 付】 2024年11月14日
【山 域】 越前 段ノ岳周辺
【天 候】 晴れ
【コース】 杣木俣~・565北の鞍部~大坂峠~段ノ岳~風吹峠~・667~杣木俣白山神社
【メンバー】 Kさん sato
馬上免、古木、上温谷、小倉谷と、朝もやがかかりふんわり薄橙色に染まった田倉川沿いの集落を抜けていき、
二俣で右の芋ケ平川のほとりの瀬戸を見送り、左の田んぼが続く杣木俣川沿いの道を遡って行くと、
数件の家がぽつぽつと建つ杣木俣の集落が見えた。
「ここが杣木俣かぁ」
道路が広くなったところに車を置き、静まり返った集落を眺める。
地図を見ていると、川の上流の最奥の村に目が吸い寄せられていく。この地に最初に暮らし始めた人達はどこから来たのだろう。
どのような経由で、何故、この地に住み着いたのだろう。今はどんな風景なのだろう。あれこれ想像してしまう。
この目で見て感じたいと思う。杣木俣は、ずっと気になっていた集落だった。山越えの「大坂」も気になっていた。
昨年の1月に、山日和さんと池田町東俣から段ノ岳周回の雪山旅に出かけ、町境の稜線から南越前町側を見下ろした時、思いはより強まった。
杣木俣は、江戸時代に多くの木地師が住んでいた記録が残っているという。
あちこちの川の最上流の村に残る伝説と同じように、ここも、山中を渡り歩いていた木地師が定住するために作った村なのだろうか。
集落をぐるりと囲む山並みの東と北西には、古くから足羽川上流の魚見川沿いの集落とを結ぶ山越えの道が通り、
越前と若狭、越前と京を繋ぐ道として多くの人に利用されてきたそうだ。
東の大坂峠道は、時代の大きなうねり、転換期の歴史にも名を残している。
平安時代末期の1183年には、源平合戦で活躍した木曽義仲に加勢した平泉寺の千騎余りの僧兵が、
大野から池田に出て今庄の燧城に向かった時に、
幕末の1864年には、朝廷に尊王攘夷の志を伝えようと京へと進軍したものの行く手を阻まれてしまった水戸天狗党1000人が、
進路を変更してこの峠道を通ったのだ。
今、わたし達の目に映るのは、稲がきれいに刈られた後の田んぼと人気のない家。
雨戸の閉まった家の前に立つ柿の木になった朱赤の実が、しんとした風景の中、さみしく光っている。
「さあ、行きましょう」
物思いにふけるその前に、地計図に「大坂」と記された、穏やかな時代、激動の時代、
様々な背景の人々のこころ模様を見つめてきた峠道に向かい歩き出す。
林道から地形図で破線が引かれた植林の谷に入ると細い道が続いていた。あたりは少し前の時代まで田んぼだったのだろう。
段々に整地され石積みも見られる。
道は、水が溜まるのかぐちゃぐちゃしていて歩きにくく、泥濘にはまらぬようそろりそろりと歩いていると、
草が出てきてあやふやになってきて、やがて朝露で濡れたススキに覆われてしまった。
「あぁ、道はもはや消えてしまったのだなぁ」
歴史に名を残す道も、歩かれなくなったら埋もれゆく。谷筋の道はより儚い。
微かな痕跡を探しにススキのヤブを突き進むか、尾根に逃げるか。
見上げた右岸の尾根は、色づき始めた木々が青空の下でやさしく煌めいている。服を濡らして無理して進むこともない。
引き返して登りやすそうな斜面に取り付いた。
尾根は、思った通りヤブもなく、明るい雑木林が続いていき快適に歩けた。
ゆるゆると高度を上げていき、標高500mで道を探そうとトラバースしながら谷に降りる。
谷の最後は急こう配なので、道は九十九折に作られたはずだ。ぐるりと見渡したが、道らしきものは見当たらなかった。
落ち葉の折り重なった斜面をよじ登って到達した峠は狭い鞍部で、東俣側も道の面影はない。
祀られていると聞いたお地蔵さまも見つけられない。1月は、雪で覆われていて分からなかったので、
今日はお会い出来ると楽しみにしていたのだが、お地蔵さまも埋もれてしまったのか、麓に移されたのか。
数々の峠を歩かれてきたKさんが「道は鞍部ではなくて尾根のどこかに登ってきているのかもしれない」とおっしゃって、
・565に登り南西に延びる尾根に入ってみると、なんと広い道が残っていた。
ドキドキしながら道を辿っていく。でも、谷に降りる道は無かった。この道は瀬戸の人々の山仕事、山越えの道だったのか。
気になったが、530mピークで引き返す。
・565から北の稜線にも道が残っていた。
坂を下っていくと、木立の間からふわりと明るい鞍部が見えた。
「ここが峠ですね。お地蔵さまも祀られている」
「えっ?」
Kさんのうれしそうなお声に驚いて斜面を駆け下りると、そこは、緩やかに弧を描く落ち葉が敷き詰められたちいさな広場になっていて、
ゆったりとした道が左右に延びていた。
東俣側には、柔和なお顔のお地蔵さまが安置され、ちいさな石室には、昭和九年の文字が刻まれている。
まさに「とうげ」の響き、「とうげ」の佇まいに満ちた地だ。
トクトクと胸が高鳴る。
地形図で確認すると、杣木俣と東俣を結ぶにはこちらの方が短く、傾斜も緩やか。
そうだ、ここが大坂峠だ!
そして、この峠道は、昭和の時代まで人々が行き交っていたのだ。
興奮と感動に包まれ、暫しお地蔵さまの前から動けず、ハッと我に返ったように一歩をかみしめながら両側の峠道に少し入り、
そのまま辿っていきたい衝動に駆られたが、今日は、紅葉の段ノ岳と、もうひとつの峠の楽しみも待っている。
峠の風景をしっかりと目に焼き付け、8月15日にコウスケさんという方が思いを込めて奉納したお地蔵さまに手を合わせ、歩みを進める。
深い感慨は、この先も続いていった。
稜線には山仕事の道が残り、落ち葉の間からはキラリ、キラリとお茶碗やビンの欠片が覗く。
10本以上置かれた一升瓶やすり鉢の欠片も見つけた。整地されたような跡もある。
雪の降り積もった里山歩きに魅了されているけれど、雪の無い季節に分け入ってこそ、出会えるもの、感じられるものの多さを思い知る。
峠道だけではない。山そのものが、人々の暮らしと深く関わっていたこと、山が生きる場だったことがひしひしと伝わってくる。
広葉樹林の雰囲気も趣があった。白い季節に、600mにも満たない里山にこんなに素晴らしいところがあると感動した、
広々としたゆるやかな地形にブナ林が広がる・582周辺は、葉が緑から黄金色に移りゆくこの時期も、
うっとり夢のような風景を描いていた。
段ノ岳山頂付近はカエデの木が多く、里山の光と影を物語るかのように、ゆかしく赤や黄に煌めいていた。
山頂から北西に雑木林の尾根を下ると、池田町側が植林されている斜面が多くなり、道もしっかりと続いていた。
・553から下ると、楽しみにしていたもうひとつの峠、風吹峠だ。
ところが、あともう少しというところで道が消えてしまい、ササが出てきた。尾根芯はこの先急坂になっている。
目を凝らすと、地形図には記されていない林道が見えた。少し右に逸れ、後ろ向きで木を掴みながら車道に降りる。
降り立った林道の、魚見側には「風吹峠」の立派な石碑が建っていた。峠には、まだ新しいお地蔵さまが祀られている。
硬くまっ平な舗装路を踏む足裏に、かつてここに杣木俣と魚見を結ぶ大切な道があったことを忘れないでほしいという、
この峠道を行き来した人びとの思いが、しんしんと響く。
峠からもしばらく片側植林が続いていったが、尾根が広くなったあたりから自然林となり、午後の暖かな陽射しを受け、
黄金色に輝く静謐なブナ林へと入っていった。さわさわ、さわさわ、過ぎゆく秋を歌うブナの透明な声に包まれる。
・667も一面のブナ。頭上を見上げ、わぁ、と口を開き、そのまま固まってしまう。
集落の裏山には、こんなにもうつくしい世界が静かに繰り広げられているのだ。
ブナの林は、下りの南東尾根の標高450m分岐あたりまで続いていった。
分岐からは、ユキツバキやユズリハでヤブっぽくなった左の尾根に進み、杣木俣の白山神社へと向かう。
あと標高差で200m。緑の葉を払いながら、しんみりと風景を味わっていたが、点々と湿ったクマの大きな糞が落ちているのを見てしまい、
ざわざわした気分に。後ろが気になり何度も振り返ってしまう。植林に入り、神社の屋根が見えて、ホッと胸をなでおろす。
往昔、池田町から杣木俣一円は曽博郷と呼ばれていて、杣木俣の白山神社は曽博郷の総社で、
池田町側の氏子達は大坂峠を越えて参詣していたという。生活、文化、習慣と深く結びつき、大切な場であった神社も、
今は、石段は苔むし、拝殿は早くも雪囲いされ、もの寂しさを募らせている。
木の鳥居を出るとやわらかな光に包まれた。
しんとした集落が、青い空から降り注ぐ午後の陽光で、あたたかくさみしく光っている。
田んぼでは、サルの集団が落穂拾いをしていた。
親子のサルをぼんやり見ていると、にぎやかだった頃の風景が浮かんできて、
雨戸の閉まった家の奥から、キャッキャッと、かくれんぼをして遊んでいるちびっこ達の笑い声が聞こえてきたような気がした。
*帰宅して、スタンフォード大学の地図を確認すると、大坂道は、ひとつ北の谷を遡り、お地蔵さまが祀られていた鞍部を越え、
東俣側は山腹を縫いながら谷に延びていました。1/25000も1/50000地形図も間違っていたことが分かりました。
sato