おはようございます、biwacoさん。
このレポも、タイトルを見ただけで私の記憶エリアにないwordばかりで、攻略?が難しそうでつい保留したまんまでした。
きょうは、まずは地形図を開いて地名、位置の確認から攻めてみることにしました。
「高見山地」「美杉道の駅」でスタート地点を確認。さらに本文にある「飼坂峠」「杉峠」が見つかると、「奥津」「川上」「多気」などの地名も次々キャッチできました。
地味なレポにお付き合いいただきありがとうございます。
中世の割には痕跡がけっこう残っていて、楽しいです。
それを踏まえてレポを再読すると、わりばしさんが辿ったルートや尾根が繋がり、北側の「霧山城跡」や、・727の「剣ヶ峯城跡」の位置も明らかにできました。
そうなると、出会った石積みや集石、杣道や作業道、周りの林相、土塁、堀切などの様子も、自分の目で見ているような気分になるもんです。もちろん、添えられている画像がイメージを膨らませてくれるのでしょうけど。
杉峠を下ってからは? の心配ご無用で、しっかりチャリを待たせていたんですね。
中世の山城ですので、元々土と岩で固めた感じで
石垣をきれいに積み上げるのは秀吉以降の城です。
軍事目的というより権力の象徴としての城に変わっていったんです。
- 下之川の大威徳明王
多気には「北畠氏館跡」など「北畠氏」の関連史跡が多いですね。歴史に疎いためWEB辞書で俄か勉強してみました。
南北朝時代の親房、顕信、顕能親子から信長に攻められるまで240年も続いたとは。地方政治とはいえ江戸幕府にも匹敵する長期政権だったんですね。文化的史料が多く残るのもうなずけます。
北畠につながりのある神仏習合の寺院や末裔が残っていたのと
松阪の本居宣長や「あいうえお・・」の五十音表を編み出した津の谷川士清などの国学者が
北畠の流れをくむ学者で文化的に影響力があったのが大きいかと思います。
- 大師道の地蔵尊
翌週の、坂の下公民館からの櫃坂峠道も古くからの軍事、暮らしの重要ルートだったんですね。
歴史を辿ると過ぎ去った時代が甦ります。そんなレポと画像をまた見せてください。
ありがとうございます。
多気を守った8つの番所も残り一つになりました。