【日 付】 2022年2月10日
【山 域】 比良
【天 候】 曇り、お昼前後小雪舞う
【ルート】 黒谷~・702~イクワタ峠~釣瓶岳~ナガオ尾根1030m~広谷~
1070m台地~武奈ヶ岳~北稜~釣瓶岳~イクワタ峠~金山谷(栗木田谷右俣)左岸尾根~P
雪は無かった。
どきどきしながら向かった林道入り口の、獣柵の扉の横に愛車を停めホッと胸をなでおろす。
昨晩、明日は、あの台地から武奈ヶ岳へ、と決めたものの、駐車地が除雪されていなかったらどうしよう、
と急に心配になりしばらく寝付けなかったのだ。
集落の坂道を進んでいって最後に行き詰ったら、バックで戻らなければならない。
集落下の車道脇に停めようか。でも、停める場所があるだろうか。
心配性のわたしは、気になった事をどんどん悪い方へと考え、うじうじしてしまう癖がある。
車から降り空を見上げる。今にも泣きだしそうな鉛色の空。でも大丈夫。天気予報では午後から晴れ。
すんなり駐車出来たので、気持ちは前を向いている。
林道に入ると直に雪が現れた。
ほんの少し前に雪が無くてよかったとよろこび、今度は雪が出てよかったとよろこぶ。
スノーシューを履き、人間は、というか、わたしはプラス思考の時もマイナス思考の時も、
いつも自分の都合で物事を見ているのだなぁ、とぼんやり考えながら歩いていると、棚田跡が目に入り、
あっ、間違えた、と気が付く。金山谷左岸尾根に向かうはずが、・702の尾根に入っていた。
どうしようかな、と思ったが、地図を見て、そうかぁ、と頷く。
こちらの尾根の方が稜線までの標高差が少ない。そして、白い稜線を長く味わえるのだ。
よし、と、一面雪で覆われた杉林の斜面を黙々と登っていく。
黙々と登っている自分に、ちょっとした爽快感を覚えながら、黙々と登っていく。
尾根が広がり自然林になった。
ひと登りして稜線に出ると、春に訪れた時とは別世界の、静まり返った世界がそこにあった。
今日は、鳥の歌う声も木々の囁きも聞こえない。ただただ、しんとした風景が広がっていた。
白い稜線も、まわりの山々も、眼下に広がるうみも、里も、すべてがしんとしていた。
まっさらな雪に足跡を刻んでいく。足音が無音の風景を震わせ記憶の音を呼び寄せる。
曇天の粘り気のある空気の中に、かつてわたしが聞いた声、残した足音が木霊するのを感じる。
お気に入りのアセビのピークに着いた。
釣瓶岳北稜には見事な雪庇が張り出していた。山頂付近のブナの木々は霧氷で飾られている。
期待はしていたけれど、胸がじんと熱くなる。こころの中でそっと手を合わせる。
どのラインで行こうかな。
清らかな清らかな雪面。真ん中に足を踏み入れるのを躊躇い、控えめに登っていく。
夢見心地で歩いていたからなのか、気が付くと、雪と氷をまとった杉が目の前に。
そして、山頂直下の「わたしの場所」に立っていた。
ゆっくり息を呑み、「わたしの風景」を見つめる。ひとつ、ふたつ・・・思いがよぎり始めた。
あっ、と首を振り、今日は先に進むのだ、と足を進める。
山頂に着き、ナガオはこっちだな、と、もこもこの雪を被った杉の間を通り抜けようとした時、
ズボッと雪にはまり、あっ、と声を挙げる。
「白い魔女に捕まった!」
ふっと、父の笑う声が聞こえた。
小さな頃、何度も語ってくれたナルニア国物語の世界に踏み込んでしまったのか。
山を歩いていると、ふとした時、聞こえてくる父の声。
「脛までのラッセルだったのが、いきなり膝上まで潜って、びっくりしただけ。
魔女に捕まったんじゃないよぉ。女神さまのいたずら。」
こみ上げてくるものをおさえながら、杉の向こうに感じた父に、ぷっ、と頬を膨らませて見せる。
杉の木立を抜けると潜りは元に戻った。
栗木田谷左俣右岸尾根の分岐で時計を見る。11時10分前。16時には帰宅すると夫に伝えている。
この雪質だったら間に合うだろう。
どこから広谷に降りようか。思えば雪のナガオは初めてだった。
三つ目の1030mの小山まで味わおう。おやつを食べて、たおやかな尾根を進んでいく。
広谷から120m登ると、あの台地だ。
雪が重くなり1050mでトラバースの誘惑に駆られるが、台地に立たなければ、と前を向く。
10か月前、びっくりするくらい大きくて凛々しいお姿の武奈ヶ岳に出会い、
無邪気な感動に包まれ、この冬また訪れるのだとこころに決めた地にふたたび立つ。
ふぅ、と息を吐き、武奈ヶ岳を見る。
目に映ったのは、おおきいとか、うつくしいとか、凛々しいとか、そんな概念を超え、
ただ、どこまでもまっしろなお姿で無言で佇む武奈ヶ岳だった。
無言の武奈ヶ岳と無言のわたし。
見つめているうちに、言葉では言い表せないじんわりとした感情が湧き上がってきた。
さぁ、行こうか。夢見たまっ白な雪面を一歩一歩、山頂に向かっていく。
霧氷のブナの木立を抜け、世界は鉛色の空と白い雪面の二色に。
息を切らさぬようゆっくりと空に近づいていく。
正午ちょっと過ぎ、小雪舞う武奈ヶ岳山頂に到着した。
わぁ、と浮き上がった気持ちになるのかな、と思っていたが、
淡々としているわたしに、何だか可笑しくなる。
山頂では、数人の登山者がお昼の休憩を楽しんでいた。
うつくしい雪庇と霧氷の木々に飾られた北稜は、踏み跡ひとつなかった。
あぁ、なんて素敵なのだろう。少し下ってブナの木の下でお昼にしよう。
今度は躊躇いはなかった。勢いよく山上の白い道に飛び込んでいく。
たっぷり降り積もった雪で、北稜は開放感に満ちていた。
霧氷の木立と雪庇の間に立つ一本の若いブナの木の下でお昼ご飯にする。
釣瓶岳からナガオの辿ってきた稜線を眺めながらうれしさに包まれる。
下りは早い。あっという間に細川越に。
ここからスゲ原に降りて谷の風景を味わいながらナガオに登ろうと思っていたが、
こんなにもうつくしい稜線を途中で下ってしまうのがもったいなくなり、
そのまま釣瓶岳へと向かっていく。
釣瓶岳に戻ってきた。
もこもこ雪を被った杉を見て、あぁ、わたしはここに戻りたかったのだ、と胸に痛みを覚える。
風景がぼやけてきた。
そろそろ、帰ろうか。白い魔女に捕まった穴をひとつずつ辿る。
その時、ぱぁっと視界が明るくなった。見上げると青空がちょこんと覗いていた。
何かが背中をひっぱった。やっぱり、イクワタ峠に下ろう。また穴をひとつずつ戻っていく。
「わたしの場所」から「わたしの風景」を見つめる。
響かせてきた足音で、風景は幾重にも折り重なり、微かに震えながら光っていた。
わたしの中でくるくるまわってきた比良への旅が映し出されていた。
そして、その奥に薄ぼんやりとしたあたたかな光を感じた。
ある時、比良に出会って以来、続いた旅。これからも続く旅。
煌めく雪稜が呼びかけた。
同時に、刻みたかったライン、煌めきのまん中を、わたしは駆け降りていた。
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